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盛岡地方裁判所 昭和40年(わ)60号 判決

被告人 桂川清

主文

被告人を死刑に処する。

理由

(本件犯行に至るまでの経過)

被告人は、岩手県九戸郡九戸村字戸田瀬月内において、農業を営む父桂川浅吉と母同キサとの間の二男として生まれ同地の戸田尋常高等小学校を卒業後家計が苦しかつたので親のもとを離れ岩手県内のみならず兵庫県や北海道に出て、工員、土工、木材の運搬夫、漁夫などとして働き、その後、昭和一八年一〇月父浅吉のもとに戻り右家業の手伝をし、次いで、昭和一九年一二月軍隊に入り弘前市の部隊で服務していたが、翌昭和二〇年九月復員し、その後も出稼ぎをしていた。しかして、被告人は昭和二一年五月肩書住居の軍馬補充部用地跡の通稀土谷川開拓部落に耕作予定地五町五反歩と採草放牧予定地四町六反歩の払下げを受け開拓民として入植し、これまでに約三町歩を畑地に開墾して、大豆、小豆、稗、ビート、馬鈴薯などの栽培を行つて来たが、その間、昭和二二年一二月頃妻ノブと結婚し四男三女を儲けたものの現金収入としては開墾地から収穫するビートと牛乳の代金を除いては見るべきものがなく、多数の家族を抱え家計が苦しかつたところから、昭和三五年頃からは、農業のかたわら木材の伐採夫、運搬夫などをしているうち次第に家業を殆んど妻ノブに委せ自分は専ら出稼ぎに出るようになり、昭和三九年七月から同年一二月までは札幌市に渡つて左官の手許として働き、その後、肩書住居に戻つて以来失業保険金の給付を受けていたが、依然として日々の家計は苦しい状態のままであつた。ところで、被告人は、数年前妻ノブが部落の者と不倫な関係を結んだことを知つて以来、その生活が次第にすさび、深酒をするようになり、しかも、酩酊すると金銭を浪費する性癖があつた。一方、被告人の実弟桂川清治は昭和二三年頃から、被告人のもとで右家業を手伝つていたが、昭和二七年五月からは被告人の口添えで、盛岡市下厨川字塚根一番地の二永山正一郎方に雇われて働くようになり、昭和二九年七月には同人の親類筋にあたるフユと結婚した上、間もなく、同人の世話で同市下厨川の観武ケ原に原野二町五反歩の払下げを受けて入植し、その間二男一女を儲け、入植当初は苦しい生活をしていたが、昭和三五、六年頃から農業のかたわら家畜商の手伝をして一家の生活を向上させ、さらに、昭和三八年五月畑地約七反歩を岩手県営陸上競技場の建設予定地として買収され約五一〇万円の補償金を受けたので、その後は、とみに裕福になつたところ、被告人は昭和三九年六月頃他から右の事情を聞知し、それまで疎遠にしていた清治方をしばしば訪れ時には数日も宿泊して牛の手入などを手伝い、その間同人に対し暗に金銭の無心をすることも再三に止まらなかつたところ、同人の妻フユが被告人において、金銭の無心をするため自分ら夫婦のもとに出入りするもののように考え、被告人の来訪を嫌い被告人を邪魔者扱いにしているように思われたので、清治が被告人に好意を寄せながらも、金銭上の援助をしてくれないのも、ひとえに、同女の指し金によるものと考え、日頃から同女に対し不快の念を抱いていた。かくするうち、被告人は昭和四〇年四月九目にも清治方を訪れて宿泊し同人に対し三万円の借用を申し入れたところ、同人が一たんこれを承諾したようであつたが、同月一三日に至り、一万円しか貸してくれなかつたので、これもフユのせいであると邪推し一層同女を憎むようになつていた。

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一昭和四〇年四月二〇日三女巻子が指の負傷のため入院していた岩手県岩手郡葛巻町の近藤病院に赴き同女を退院させ、同女と一緒にバスに乗車して帰宅の途についたが、その途中所用を思い出し自分一人で下車し、知り合いの同町林長次郎方に宿泊の上飲酒し翌二一日には早朝から同町内の顔見知りの家や同郡岩手町大字沼宮内の飲食店など数ケ所で飲酒して所持金を殆んど使い果たし、自宅方面行きの最終バスにも乗り遅れてしまつたので、同夜は実弟の清治方に宿泊させて貰おうと考え、同町国鉄沼宮内駅から同駅発午後六時五八分の上り列車に乗車し厨川駅で下車し、同日午後八時三〇分頃盛岡市下厨川字塚根一番地の三の同人方を訪れたところ、たまたま同人は不在であり、子供らもすでに二階六畳間において就寝中であつたので、階下の常居八畳間においてこたつに入りながら、同人の妻フユ(当時三四年)と雑談したが、同女が被告人に何となく冷たい態度を示し、酒を飲みたいといつても用意もしてくれなかつたので、自分で台所に行き飲酒した後、常居にもどり、その頃、同女に「弟は、もうかつているのか。」と尋ねたのに対し、同女から「もうかつているのだか損をしているのだか俺や知らない。人の仕事にこしやくさなくたつて(節介しなくてもの意)、いいのでないか。俺だつて苦労してここまで来たんだ。兄貴きやないもんだ(甲斐性がないの意)。」などと罵倒されたので、憤慨し、こたつにあつた火ばし(証第二一号の一、二)を手にとり、同女の顔面を右火ばしで一回殴打したところ、これに憤慨した同女から胸部を押されて倒されたので、ここに、日頃から同女に対して、抱いていた憤まんの情が一時に爆発し、とつさに、この際、同女を殺害しようと決意し、直ちに正面入口付近にあつた木割(証第二号)を持ち出して常居に至り、こたつに入つていた同女の後方から、同女の頭部を右木割で数回殴打し、次いで、牛舎にあつたホーク(証第一、第三号)を持ち出し、右ホークで常居から出ようとしていた同女の臀部、左右大腿部などを数回突き刺したり同女の頭部を数回殴打して、同女をその場に昏倒させ、次いで、後記第二の犯行に及んだ後、同女がなおも絶命せず、かすかに声を出し清治を呼んでいたので、さらに、同女の頭部を右木割で数回殴打し、よつて、同女をして頭部外傷に基く失血により間もなくその場で死亡するに至らせて殺害し、

第二右犯行の間、右犯行を被告人を知つている同女の子供らに目撃され、犯行が発覚してしまうものと考え、とつさに同人らをも殺害しようと決意し、右木割を持つて、二階六畳間に至り、その場で就寝中の同女の長女智子(当時九年)、長男清一(当時七年)、二男幸治(当四年)の頭部を右木割でそれぞれ数回殴打し、よつて、右智子をして頭蓋骨陥没骨折などによる脳挫創により、右清一をして頭蓋骨陥没骨折などによる脳挫傷により、それぞれ間もなくその場で死亡するに至らせて殺害し、右幸治に対しては入院加療二ケ月間を要する脳挫傷を伴う右前頭側頭骨及び右後頭骨陥没骨折の傷害を負わせ、これにより、同児が死亡したものと速断しその場を立ち去つたため殺害の目的を遂げなかつた、

ものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示所為中、第一、第二の各殺人の点は刑法第一九九条に、第二の殺人未遂の点は同法第二〇三条、第一九九条に各該当するところ、以上は、同法第四五条前段の併合罪であるが、その犯情にかんがみ、判示第一の殺人の罪について、所定刑中、死刑を選択するので、同法第四六条第一項本文により、他の刑を科さず、被告人を死刑に処し、訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用して、これを被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

(1)  本件犯行は、偶発的なものであるが、判示のような極めてさ細なことから、母子三人の貴重な生命を奪い、さらに、いま一人の幼児をも殺害しようとしたものである。また、その犯行の方法は被害者らの頭部を木割で乱打するなどのもので現場は凄惨を極め、かつ、死亡した桂川フユの下半身を露出し、同女の陰部に火ばし二本を深く突き刺したままにして同女を恥づかしめており兇暴残虐というべきである。しかも、被告人は犯行後現場で飲酒し着衣を取りかえてその犯跡の隠蔽に腐心し、その後の行動からも良心の呵責に悩み真面目に反省、悔悟したといえるかどうかが疑わしいものである。

(2)  次に、本件犯行について看過できないことは、何らの罪もなく就寝中の九才の智子と七才の清一を殺害したことであり、これは被告人の反社会的、暴力的性格の極めて大きいことを端的に物語るものである。

(3)  さらに、本件犯行は、一般社会の人心に至つて大きい不安と衝撃を与えたのみならず、その犯行の結果、桂川清治は最愛の妻、長男、長女を失い、幸治は母親、兄、姉を奪われて、ともに、その平和な家庭生活を根底から破壊され、特に、幸治は四才の幼児でありながら、もはや母親の愛情を受けることができなくなり、これにより、その遺族の蒙つた衝撃の悲嘆は計り知れないものがあるといわなければならない。

(4)  以上にみた本件犯行の動機、方法、結果、犯行後の状況などを考慮すれば、被告人の罪責はまことに重大であるといわなければならない。しかして、被告人が中年に至る今日まで前科もなく、比較的難なく過ごして来たこと、本件犯行の一因はフユのやや挑発的な言行が被告人の感情を刺戟したことにあること、本件各犯行が計画的でなく、むしろ、偶発的なものと認められること、その他被告人の家庭の事情など被告人に有利な一切の情状を斟酌しても、なおかつ、被告人に対しては、この際極刑をもつて臨むのが相当であると思料する。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 菅家要 佐藤栄一 田口祐三)

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